|
「あれは、なんだ?」 目を落としていた書類から顔を上げると、後部座席の窓から、わずかに遠くの山肌が目に入り、海馬はそう口にした。 さほど高くはない山だが、それでも途方にくれそうなほどの階段が、山の麓から頂上までその山肌に張りついている。 そして、その途方にくれそうな階段を降りてくる人物が一人いた。 この辺りはあまり通りかかる場所ではなかったため、その階段の上になにがあるのかを海馬は思い出せないでいた。見たところは、山肌に張りつ く階段しか認識できない。 「神社があるようですよ。正月にも無人のようで、誰も参拝などしないと思っていたのですが、珍しいですね。それともジョギングでもしているの でしょうか」 事故渋滞にはまってしまった時間をなんとか埋めようとしているのか、いつもは口数の少ない運転手がそう返してくる。確かに、やたらと長い階 段はジョギングに向いているようだった。だが、車からではそれが人であることが判別できる程度であり、その人物の容貌もなにをしているのかも 分からない。 童実野町郊外で新設工事中の工場の視察を終え本社へと戻るところだが、迂回路のない交差点で事故があった。 車は少し動いては止まり、また少し動いては止まりを繰り返していて、ほとんど進んでいないように思える。かなりの時間同じ風景を見ている気 がした。 まったく動かないのなら書類に集中もできそうなものだが、わずかには動き、また止まるその振動に気が削がれてしまう。集中力が足りないと言 われればそれまでだが、理不尽な渋滞に長いことはまり、平常心でいられるものもそうはいない。 完成に近づいている新工場の視察は修正点も見つかり有意義であったし、今後の展開で考えることもかなりありそうだったというのに、些細な揺 れのせいで時間を有意義に使うことができないでいる。 そのことが、苛立ちをよけいに煽り、また気が削がれていく。そんな悪循環に海馬ははまっていた。 書類のことは潔くあきらめて、気分転換をしようと外に目を向けて入ってきたのが、階段を降りてくる人物の姿である。 海馬は童実野町育ちではないが、そこに神社があることは知っていたかに思う。人に言われなければ思い出せないほどの、奥底に埋没していたか のような、かすかな記憶だが。 幼い頃にわずかだが、童実野町に滞在していたことがある。両親がかろうじてそろっていた、そのころの記憶だろうか。 海馬にとって、童実野町は思い出したくはない土地だった。だが、童実野町に君臨する海馬コーポレーションの副社長として、海馬はその思い出 したくない場所に身を置いていた。 海馬瀬人。アミューズメントを中心とした精密機器の第一線を走る海馬コーポレーションの副社長にして、主要エンジニアの一人である。 目を休めるように山の緑と、階段を行く人物を追っていたが、鬱蒼と茂った木々に遮られ、人物の姿が見えなくなった。 なんとなく気落ちしたような気分になる。相変わらず、車は止まっている時間の方が多い。 「ここで降りる」 幹線道路計画の不備だろうと、行政に意見せねばならないなどと考えていたが、よけいに苛つくだけなので、海馬は運転手にそう告げた。 「瀬人様?」 「ここなら、住宅街を歩いていけば交差点を抜けられるだろう。歩いていけない距離ではないし、拾えたらタクシーでも拾う」 いつもは落ち着いている運転手があわてて後ろを伺ってくるのに、運転手に立腹しているわけではないのだと言うように、海馬はそう説明する。 「本当に申し訳ございません」 「貴様のせいではない。気にするな」 運転手が路肩に寄せようとするのを制しておき、荷物を頼むと言いおいてから、海馬は自らドアを開け、車を降りた。 コートがないと寒さを感じるかと思っていたが、天気がよいためか、薄手の白いスーツの上下だけでも寒さは感じない。 申し訳なさそうに後ろを気にしている運転手を見ないようにして、海馬は手ぶらの状態で建物の間へと入っていく。 この辺りは歩いたことはないが、新工場を建設するにあたり、周辺の地図は頭の中に入っている。海馬コーポレーションが君臨する以前に整備さ れた住宅街は、車の通り抜けができないようになっていて、交差点で事故一つ起こっただけで、車で抜けられる道がなくなってしまう。静かな住宅 地を目指したらしいが、商業地としても発展をし続けている今の童実野町にはそぐわなくなってきていた。 車で通るにはややこしく抜けられない道だが、徒歩でならばそんなことはない。 昨日までは雨が長いこと降り続いていたが、今日は天気も良いことだし、海馬は散歩を楽しむように住宅街を歩いていく。 最近は歩くということが少なくなってきている。時間がもったいないということもあるし、仕事以外で外出をしなくなったということもある。 長雨の間も、一度も傘を差すことはなかった。 このところ高校にもほとんど行っていない。そろそろ顔を出さないと家に報告が行きそうである。 高校程度の教育などいまさら必要ないと思うのに、義父は海馬と普通の親子関係を築きたいらしく、退学することを許さないし、思い出したよう に登校しろと口にしていた。 海馬コーポレーションの社長、海馬剛三郎の養子になったときには、もう齢十に届いていた。まだ小学校にも上がっていなかった弟のモクバと違 い、いまさら普通の親子関係など築けるわけがないと海馬は考えている。 ビジネスの場で繋がっている。それだけで充分ではないかと思う。 元々、慈善で養子に迎えられたわけではない。優秀な跡取りを探していた剛三郎の眼鏡にかなっただけだ。海馬に求められているのは、息子とし てではなく、その優秀な頭脳を持つ部下としてであると理解している。 そんなことを考えながら、普段見ることのない住宅街の中を行く。 似たような家が整然と並ぶ住宅街は、漏れ聞こえるテレビの音に洗濯物がはためく音、どこかで泣いているのは幼子か猫か、とにかく生活感に溢 れていて、懐かしさを感じた。 養子になる前―――両親が存命の頃は、こんなところに住んでいた。もう少し土地も家も広かった気はしたが、海馬が子供だったから、広く見え ただけかもしれない。 アパートの壁に貼られている番地表示を確認し、頭の中でナビのように地図を展開させる。 その地図の示す通りに、海馬は住宅の間の細い道へと曲がろうとした。 「痛ってぇ―――」 その声とともに、海馬の足下には人が一人転がった。 海馬にはほとんど衝撃はなかったが、どうやら路地から走り出てきた人物が海馬の足に引っかかって転んだようだった。 転んだ後ろ姿が小振りだったのと、カードをアスファルトにばらまいていたため、子供に怪我をさせてしまったかと、海馬は眉を寄せる。 「悪い。前見てなかった」 そう言いながら立ち上がった人物の声は身長の割には深く、姿は少年めいてはいたが表情は引き締まっていて、海馬が思ったほど幼くはなさそう だった。そのことに、詰めていた息を吐く。 とにかく、派手な少年だ。ロックだかパンクだか海馬には区別がつかなかったが、首には首輪のようなチョーカー、それに銀のアクセサリーを過 剰気味につけ、片耳には肩につきそうなほど大振りな金色の耳飾りが揺れている。十字を基調にしたようなものにゆらゆら揺れる飾りのついたそれ は、十字架というよりかは古代エジプトのアンクに似ていた。 だが、なにより派手なのはその少年そのもの。紅と金と黒の混じり合った奇妙な髪型、それに、海馬を見上げてくるやけに鋭い瞳の色も深い紅の 色だ。 「カードに夢中になるのも結構だが、歩いている時以外にしろ。濡れてしまっては元も子もあるまい」 アスファルトに散らばったカードを拾い集めている少年に、海馬は自分の足下に落ちていた一枚を拾い上げてそう口にする。 海馬の足下にあったカードは、昨日までの雨が乾いていないのか、ちいさな水たまりのすぐ横に落ちており、もう少しで濡れそうだった。 「サンキュ。ちょっと、待ちきれなくてさ」 深い紅の色を細めて、その少年はどこか照れくさそうに笑う。海馬から受け取ったカードとアスファルトにばらまいたカードを腰に巻いている デッキケースへとしまう仕草は丁寧で、カードを大事にしていることが知れた。 開封したパッケージもアスファルトに落としていたが、それも拾い上げると、カードと同じようにデッキケースへとしまっている。 そういえば新しいカードパックが出たばかりだ。 そのカードは、海馬コーポレーションが日本での総代理店として扱っているカードゲームのものだった。 そもそも海馬コーポレーションで取り扱いを始めたのは、海馬がそのゲームを嗜んでいたのに、社長である義父が取り扱いを決めたのだ。恩を着 せられるのも、親バカ気分なのもどうかと当時は思ったが、定期的に全国大会が開かれるほどに定着したのだから、海馬が嗜んでいたのは知るため の機会にに過ぎず、義父にはビジネスの勝算があったのかもしれない。 今は店先でカードを買うことはなくなっていたし、忙しさにかまけて一年ほどデッキ調整もしていなかった。それでも、新しいパックを開けると きの高揚感は今でも理解できる。 「なんだ?」 思わずその手を追っていた海馬が、下から見上げてくる視線に眉を寄せる。海馬の瞳の蒼が珍しいのか、見上げてくる紅は食い入るようにして海 馬の顔をのぞき込んでいた。全体的に色素が薄い海馬だが、澄んだような蒼い瞳は今は亡き母親ゆずりだ。 「いや、綺麗な蒼だな、と思って。運命の蒼、だ」 深い紅で海馬の蒼を捕らえたまま、少年はそう呟く。紅はより深くその色を濃くしていて、先程までの笑みはもうそこにはない。 その色に、飲まれてしまいそうだ。 そんなことが頭に浮かび、海馬はそれから逃れるように、視線をわずかに逸らす。まるで逃げるかのようで不愉快だったが、心を不安定に揺さぶ られるような紅の色を見返し続けるのは不快だった。 「貴様こそ、珍しい色をしているではないか」 口にしてから、海馬はその珍しい色と似ているもののことを思い出した。 似ているどころではない、そっくりと言っていい。だが、その存在感は全く逆だ。こんなに特徴的な外見をしているのに、海馬の記憶に埋もれる ほど希薄な存在感。目の前の少年は、一度見たら忘れることすらないだろう、圧倒的な存在感を持っているのに。 同じ姿形なのに、持っている雰囲気が全く違う。 血縁者なのだろうかと、思わず考える。 だが、そんなことは自分には関係ない。そう考えて、海馬は黙って少年に背を向け、腕時計に視線を落とす。渋滞にはまっていた時間を考えれば 些細な時間であったが、無駄な時間を過ごしたように思う。 「お前、名前は?」 その背中にそう声をかけられ、海馬は足を止めた。 「人に名を尋ねるときは、自分から名乗るべきだろう」 振り返らずに、それだけを返す。 「オレは遊戯。さぁ、お前の名は?」 「それは本当に貴様の名か?」 尊大な名を告げる声が背中にかけられ、海馬は思わず振り返った。 少年が告げたその名は、海馬の知っている、少年にそっくりな人物と同じ名前だったからだ。 「どうしてだ? 本当に正真正銘オレの名だぜ」 海馬が振り返ったことがうれしいのか、わずかに表情をゆるめながらも、少年は小首を傾げる。 「貴様によく似た人物を知っている。その者の名と同じとは解せんな」 暗にその者の名を騙っているのだろうと、言葉の中に含ませる。何の目的があって、初めて会った人間に名を騙る必要があるのかは分からない が。 「ああ、相棒を知っているのか。奇遇だな」 ぱっと、少年は晴れやかな笑みを浮かべる。そうやって深い紅の視線がゆるめられると、少年は少しだけ海馬の知っている人物の雰囲気に近づい たようだった。 「血縁者なのか」 「まあ、そんなもんだぜ。でも、名前は本当に遊戯だ。相棒と一緒の、な」 訝しげに、海馬は黙って遊戯と名乗った少年を見る。年がたいして変わらない血縁関係の者に、同じ名前をつけるだろうか? 「名を騙るメリットなんてないだろ」 疑われるなんて心外だとでも言うように、少年は大げさにため息をついて見せた。 確かに、通りすがりにたまたま会っただけのものに名を騙るメリットはないように思えたが、それを信じようとは思わない。 だが、これ以上、少年といることになんの意義も見い出せず、海馬は黙ってまた少年に背を向けた。 「おい、待てよ。まだお前の名前を聞いてないぜ」 「通りすがりの者に名を教える必要性を感じないが?」 慌てたような声が背中にかけられ、海馬は足を止める。 「オレは教えたのに?」 たったそれだけの言葉が、海馬には挑発のように聞こえた。人の名は聞いておいて、自分は逃げるのかと。 仕方なく、海馬は振り向いた。 だが、教えた名前は本当かと、あからさまに疑っている視線で見返してやる。 たかが名前一つ。それだけなのに、カードを挟んでぎりぎりの攻防を繰り返しているかのような気分だった。 「きっと、また会うことになるぜ。お前はオレの運命の蒼だからな」 意味ありげに紅の瞳を細められ、そう告げられる。細められた紅は柔らかいようであり、なにかを含んでいるようでもあり、挑発するかのように も見える。そんな、不思議な色をしていた。 告げる言葉の意味も、視線の本意も分からない。海馬の訝しがる視線に、遊戯はどこか挑発めいた笑みを返した。 名を告げぬことは逃げることだ。そんなふうに言われているようで、海馬は引き結んでいた唇を開く。 「海馬、だ」 それだけを言い置いて、くるりと背を向けた。そして、少年を無視して歩き出す。 「また、会おうぜ。海馬」 背中にそう話しかけられる。だが、海馬はそれを無視して住宅街を進んでいった。 奇妙なことを言う少年につけられていたらやっかいだと、しばらくは背後の気配を探っていたが、背後に人の気配はなく、遊戯は海馬のあとを 追ってはいないようだった。 住宅街を抜け、大通りまできたところで、海馬は一度だけ背後を振り返る。やはり少年の姿はない。 どこか疲れに似たものを感じて、海馬はほっと息を吐く。 このまま社に戻ろうと思っていたが、どうにも気分がすっきりしない。こんな気分のまま仕事をしても集中できなさそうなのと、ここからなら高 校が近いことを思い出し、そちらに向かうことにする。 授業はもう終わっている時間だろうが、別に学びに行くわけでもなし、そんなことはかまわない。ただ、課題という名の出席日数の変わりになる ものを受け取り、たまには出席して欲しいという学校側の訴えにプレッシャーをかけにいくだけだ。 秘書にメールを一つ送っておいて、海馬は順調に流れている大通りを歩いていった。 |
つづく... |