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薄ら寒い、じめじめとした空気がまとわりつく。 雨季でもないのに静かな雨が降り、空はどんよりとした厚い雲に覆われている。空には、いつもはあるはずの痛く刺すほどに感じる強い日差しはない。 乾ききった地面はぬかるむことはないものの、砂塵を巻き上げることもなく、神殿の柱も水分を含んだような冷ややかさがあった。 星を読もうにも星が見えないため、先読みもできず、神殿には不吉な空気が漂よっている。 空のようなどんよりとした疲れに、セトは人目のつきづらい神殿の外れの柱に身を持たせかけようとした。夜の冷たさをそのまま残す、乾いた冷ややかさを持つはずの柱はセトの気に入りだった。 「イヤな天気だな、セト」 だが、柱に触れた感触がじめっとした冷ややかさで、思わず手を引いたそのとき、巨大な柱の後ろからそう声をかけられて、セトは身を引く。 「王子」 聞き覚えのある声は、反射的にセトの膝を折ろうとする。 声の主は、この国の王子だ。現王アクナムカノンの嫡男で、遠くない未来にこの国を統べることになるだろう、王子。 「控えなくていい、人目につく」 ちらりとその姿を見せてから、王子はすぐに柱の影へと身を潜めた。元々人通りの少ない外れた場所ではあるが、王子の姿は周りに溶け込まず、際だって浮かび上がる。 その地位を示す金の装飾品もごくわずかにしか身につけず、身につけているものも簡素なものであるというのに、王子は素の存在感だけで人目を惹く。 逆立ったような髪は黒と金と紅。 まだ成長途中の身体はちいさく細かったが、張りのある褐色の肌は日頃の鍛錬で程良い筋肉に覆われていた。 そして、瞳の色は鮮やかな紅。 それが、セトを捕らえる。 初めて会った子どもの頃から、この瞳に射抜かれると、セトは一瞬息を飲む。 それほどまでに、特異な色だけでなく、その瞳は最初から力強さを持っていた。なんの苦労もないやんちゃな王子と言われていた子どもの頃から、その紅にははっきりとした意志がある。 「また、どうして神殿(ここ)に?」 ふいに通りかかった者から見咎められないようにと、セトも柱の影に身を潜めるようにして、そう聞く。 王子には放浪癖があり、よく町などに出かけていて周りの者を困らせているが、最近はそんなこともめっきり減っていた。それに、以前は神殿にもセトの顔を見によく訪れていたが、それも近年は止んでいる。 会うのは王子の私室。それも、王子に呼び出されるときだけだ。 「イヤな天気だ。不吉だと噂されているようだな」 どんよりとした空を見上げて、王子がそうため息をつく。 「星が見えないため、そう述べているだけです。風が吹き始めましたから、明日には雲も晴れるでしょう」 セトも空を見上げ、そう返す。 星の位置で吉兆など直接占えるわけはないが、この国の吉兆は農作物に左右されるため、星の位置や空、風などの自然現象を読むことは神殿の重要な役目である。 母親が死に、母一人子一人だったセトが神殿に引き取られてからずいぶんと経つ。後ろ盾も家柄もなにもないセトは、勤勉さと星を読む才覚とで、今は王の側近たる六神官の頂点で、王の弟であるアクナディン付きとなっていた。 「それはよかった。雨は障るからな」 ぽつりと呟く言葉で、なにに障るのかとは王子は口にしなかった。 それがなにを指しているのかセトは承知していたが、あえてなにも聞かずにいる。もう、憂いても腕のなかに抱きしめて慰めてやれるわけではない。 王子は、それが失言だったかのように、しばらくなにも口にせず、セトも昔とは違い、気安く話しかけられる立場ではないと口を開かず、しばらく沈黙が過ぎる。 「セベクアルが死んだ」 セトが沈黙に居たたまれなくなってからしばし、王子は唐突にそう呟いた。 「───の町で、隣国の者と思われる人間と共の者を数人とで、皆殺しだ。辺りは血の海だったそうだ」 さらりと、なにの感情もなく王子は言ってのける。王子が口にした町の名は国境付近の町で、セベクアルは密会をしていたものと知れた。 「それは、どういう意味でしょうか」 セトの問うた言葉には、二つの意味があった。セベクアルが殺されたそのこと自体の意味と、そのことをわざわざセトへと告げる意味と。 王子は、どう言った意図でその言葉を口にしているのか。 ファラオですら知らぬはずの、秘められた闇の領域。それに王子が気づいているとでも言うのだろうか。 「よそよそしいその口調はもう改まることはないのか? こうしていられるのも、あとわずかだろうに」 だが、王子はセトの問いには答えず、憂いを秘めた表情でセトを見ると、ちいさくため息をついた。 縋るような瞳は、幼いときの泣き出す寸前のものとよく似ていて、セトはあの頃と同じように腕のなかに抱きしめて慰めてやりたくなる。 だが、もうそれは叶わない。 なにもかもが変質してしまった、今となっては。 現王で、王子の父であるアクナムカノンが病に伏してから、王宮も神殿も騒がしくなった。ただし、表向きはそんなそぶりは見せない。 先の争いから随分と経ち、王子もセトも争いを知らぬ世代となった。小競り合いを繰り返していた時代と違い、安穏とした国の中は落ち着いているように見えたが、それはファラオの健康一つで揺るがされている。 後を継ぐのは、今セトの目の前にいる王子だ。だが、その年若さが国を揺るがしている。 王が健康だったときには、快活で気さくな王子の性格は良しとされていたのに、ひとたび王が病に伏してしまうと、行動力があるといわれていた快活さはただの放蕩癖に、親しみやすい気さくな人柄は威厳がないと眉をひそめられることになる。 ただ、その若さ故に足をすくわれかねない。 いつからか王子は変わった。口数は少なくなり、笑顔を見せることはなくなった。明るいくるくると良く動いた紅の瞳はその色を深く暗くし、いつも冷ややかだ。 王子は以前のようにと言ったが、王子自身すら昔の面影は遠い、セトとの関係も変質してしまっている。 そうしてしまったのは、王子自身だ。 「王子………」 それでも、縋るような瞳を───その紅を拒めないのをセトは自覚していた。それは自らの立場と保身を慮ってのことではないことも。 「無理にとは言わないが、あと少しだけは、昔通に………」 誰よりもそれが無理であるのが分かっているのだろう王子の言葉は、掠れて消えた。 まだ頼りなさが残るその背中に、セトはなんの言葉もかけることはできなかった。 それよりも、今は行くべき場所がある。 命令を実行した者への、労りを。 そして、忠実ではなかったことへの、戒めを。 |
つづく... |